能登半島地震の発生から1日で3カ月が経過した。地震の直後、石川県輪島市の「輪島朝市」周辺で起きた大規模火災では、会社員の清水宏紀(ひろき)さん(46)=同県能美市=の両親も巻き込まれた。倒壊した実家から両親を救い出そうとしたが、迫る火に阻まれた。母の声は「最後まで聞こえていた」だけに、つらい記憶として刻まれる。1日で地震から3カ月。実家跡から骨は見つかったが、身元特定には至っていない。
元日の午後、輪島市河井町の実家に帰省していた宏紀さんは、父の博章さん(73)や母のきくゑさん(75)とおせち料理を食べながら、サッカーの日本代表戦を中継で見ていた。誕生日が12月30日だったきくゑさんを祝うため、ケーキも用意していた。
代表戦の試合が終了して間もなく、強い揺れがあった。「津波が来るかもしれない」。宏紀さんは両親を避難させるため、車を取りに少し離れた駐車場へと向かった。車に乗り込むと、さらに激しい揺れが襲った。
周辺の建物の多くが倒壊し、道路も通れない状態に。走って実家まで戻ると、両親がいた木造3階建ての1階部分が完全につぶれていた。
「大丈夫か」。声をかけると、博章さんの反応はなかった一方、きくゑさんの声は聞こえた。「お父さん、外にいないかな。助けを呼んできて」。近隣の住民に助けを求めようとしたが、あちこちの家で生き埋めが起きていた。
道路には下半身が建物の下敷きになり、助けを求める高齢男性の姿もあったが、なすすべがなかった。市外に住む友人に交流サイト(SNS)で実家の住所を伝え、救助を求めた。「崩れた実家を見たとき、救助隊でないと助けられないと思った」と振り返る。
やがて遠くに赤い光が見え、炎が上がっているのに気付いた。プロパンガスのボンベの爆発音、行政無線から流れる津波警報―。火は刻々と迫り、覚悟を決めた。生き埋めのままのきくゑさんに「母さん、ごめん。ほんとに悪いけど、もう逃げるよ」と声をかけた。返事は「分かった」の一言だった。
翌朝に戻った実家は完全に燃え、火がまだくすぶっていた。「感情が無くなってしまった。避難所に行ったり、実家に戻ったりを繰り返した」というが、今も記憶がはっきりしていない。実家跡から1月9日、「人の骨が見つかった」と警察から連絡があった。
きくゑさんは長年、小学校の教師だった。華道も習い、玄関にはいつも生けた花が飾られていた。宏紀さんは「おっとりした性格で、糖尿病の父を支えていた」と振り返る。博章さんは輪島塗の蒔絵(まきえ)師で、厳しくも優しい父親。釣り好きで、2人で連れ立って海へ出かけたこともあった。
宏紀さんは週1回は輪島に戻り、実家の整理などを続けている。焼け跡からは両親が使っていた湯飲みや、博章さんが手掛けた陶器が見つかった。骨のDNA型鑑定の結果は出ていないが、すでに覚悟はできている。
あの日から3カ月。被災地の記憶が風化していくことも心配だ。「つらい思いから地震のことを話せなくなった人も多い。(自分は)まだ話ができるから、悲惨な現実を伝えていきたい」
(鈴木源也、安田麻姫)
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